さらに2【西洋的な個人と日本的な個人】

さらに2【西洋的な個人と日本的な個人】

次は「スポーツ界にクソをぶっかける」という事を自分に予告しておいた。

だが、最近「世間様」が大好きなテレビのワイドショーなどで、ボクシング、レスリング、体操競技などの組織構造の問題や、封建的な体質への批判が相次ぎ、自分的に「そだねー」とばかりに溜まっていた想いが散逸してしまった感がある。

言うなればクソ出そうと思って便器に座ったら、屁だけが出た。みたいな状態だった。

ただ何とか力んで、ぶっかけたい。

おそらくこの手のニュースは、世間で「やっぱり体育会系のパワハラってエグいよねー」みたいなカタチでただただ消費されて、いつぞやのブラック企業の労働問題「やっぱり飲食業のサービス残業ってエグいよねー」くらいの印象度合いで、巷の話題に顔を出し、次第に忘れられていく。

私が思う私を含む世間様は、まるで映画や小説を観るかのごとく、この手のニュースを消費する。

その問題の信ぴょう性などは問わない。

お茶の間の外の出来事として、当事者意識なども別に感じない。

もはやフィクションかノンフィクションかすらも問わない。

その問題の事実関係や重大性、改善策や改善の余地などはどうでもいい。

世間様は、そのニュースの「話題性」しか問わない。

明日の「日常会話」あるいは「世間話」これらの中で使えるかどうかの「話題性」しか問わない。

よしよし、いい感じに出てきたので、一気に排泄させて頂きたい。

そうなんだ。私はこの「日常会話」あるいは「世間話」が繰り広げられる「日常空間」「生活圏内」からたまには意識をそらしませんか?という趣旨で、各個人のバッセン旅をそそのかしている。

ここでひとまず「社会」という言葉の意味と「世間」という言葉の意味の違いに着目したい。

私は不真面目だった学生時分に、西洋から輸入された政治哲学に触れた。

なんとなくすら分からないままに卒業し、現在に至るが、その時に触れた西洋哲学は、日本社会にはそのまま適用できないし、受け入れられないし、通じないんじゃないか?という思想と現実社会のある種の齟齬が頭の片隅にあった。

もちろん私が無意識に刷り込まれてきた東洋的思想との齟齬や差異が生じるのは必然だろうし、その学問的・思想的系譜の差異もざっくりとは勉強したが、どうも腑に落ちきらず、しっくりと来ない心地悪さがあった。

まるで2サイズ大きいジャケットを羽織っている気分のような。

この「社会と世間の違い」という学問的問題は、私がグーグル先生で「世間」と検索して出てきた阿部謹也先生(元一橋大学学長・社会学・歴史学・経済学・世間学)の著書『「世間」とは何か』を読んで、私の中では一定の解釈を得た。

この本からの受け売りである。

かいつまんで書くと明治10年(1877)頃に「社会」と和訳された「society」という言葉は公的な場面や学問的な場面において使用されながら、徐々に一般市民にも浸透していった。

しかし、それ以前から今現在でも日本人が暮らしている実世界は、今でいう「世間」という言葉で表現される空間であり、現代においても「社会」は厳然たる存在であるが、その存在は私達の暮らす実世界の空間とは、少し違う。

「society」という言葉が輸入されて、実世界が「社会」という言葉に置き換わったわけではなく、それまでと同じように実世界は「世間」として存在し続け、新たに「社会」という帰属するレイヤーが加わっただけ。のようなものらしい。

今までこの問題は、知識人から言わせると日本が文化的に民族的に知的教養的に遅れているから思想に現実社会が追いついてないんだ、というような論調で片付けられていたらしい。

まるで日本人の意識が2サイズ小さいからだというような感じで。

しかし、現代日本でも「世間」と「社会」という言葉は、別々の違う形で「個人」に作用し、個々人の中で区別されて意識されている。

そもそも、明治10年(1877)頃に「society=社会」、そして明治17年(1894)頃に「individual=個人」という言葉が輸入される以前は、日本には今日のような社会・個人という概念は無かったのである。

伝わりづらいので、過激に言うと、我々日本人は、時に、社会を逸脱するより世間を逸脱する方が恐ろしいと感じるのである。

日本人は、普段の生活では「世間」ばかりを気にして暮らしている。

知識人達が訴えたように「西洋的な自立した個人」が発達・成熟していないわけではなく、「日本的な個人」は「社会で私がどう生きるか?」という枠組みは頭では分かっているが、それよりも「世間で私がどう振舞うか?」という問題意識の方が高く、優先度が高い。

ニュースなどでしばしば有名人などが問責に値する問題を起こした時に発せられる「事実ではありませんが、世間を騒がせた事についてはお詫びいたします。」という日本では定番の台詞がある。

これはまさしく日本的な謝罪のスタイルで、私には理解できるが、西洋人からすると「誰に謝ってるのか分からない」「否認しといて謝罪するって意味分からない」となり、「否認するなら真っ向否定して戦えば?」「謝罪するならちゃんと認めれば?」という感覚になるらしい。

この西洋的な「社会/個人」の関係と、日本的な「社会(世間)/個人」の関係との乖離の、歴史的研究に着手し「世間学」と称し、学問的問題提起を行ったのが阿部謹也先生である。

この問題は、社会科学全般に横たわり、社会認識の根底でズレを生じさせている齟齬の原因だともおっしゃるが、全く同意する。

でも、この思想史を追っかけて行くと大変そうなのでこの辺で、私は先を急ぎます。

「神様に創造され、生きている私」と「仏様に見守られ、暮らしている私」の違いみたいな事にしときます。

ちょっと、実体概念と関数概念との違いに類似している感がありそうですが、不勉強なので止めておきます。

と、まあ、

このような自分の周囲の「空間=世間」での話題性しか意識しないのが我々「日本的な個人=現代日本的大衆=世間様」だ。

そしてこんな我々のスポーツ観を扇動してきたのは時のマスメディアだ。

テレビ・新聞・マンガ、アニメである。

・お茶の間での観戦を半強制するゴールデンタイムのプロ野球中継
・帰属意識を軸に対立・対抗させる学生野球
・ことさらに郷土愛を煽り盛り上げる甲子園
・勧善懲悪な世界観でヒーローを仕立てるマンガ・アニメである。

これらのコンテンツで我々世間に「スポーツの話題」を供給し続けてきた。

「スポーツ界にクソをぶっかける」というか、スポーツ界を牽引し、扇動し、もてはやしてきた「マスメディアと世間」にクソをぶっかけたつもりだ。

でも、なんか言い残した感がまだまだある。

それもしょうがない、ここは、私の生活圏外のアメリカだ。

ここ数日は肉ばっかり食ってて便秘気味というかクソ切れが悪い。

しかも、今はクソしてもホテルの水が出ないから流せない。

夜に水が出なかったら風呂もクソも出来ない、ここのホテル業・接客業の観念はどうなってるんだ。

そして、ベースボール文化が根強いわけではなく、スポーツ観も日本のそれとは全く違う。

空き地に落ちていたボールを見つけたが、野球ボールでもサッカーボールでもなく、アメフトのボールだった。

アメリカなのに現地人はベースボールにほとんど興味が無さそうで、私のようなクソ東洋人には理解が難しい異国の地だ。

usa