さらに1【野球人的ドグマによる洗脳】

さらに1【野球人的ドグマによる洗脳】

趣旨・目的カテゴリーの2018.6.1に書いたつぎに【野球人的ドグマ】の記事で、


「スポ根やめますか?それとも スポーツやめますか?」

あるいは、

「野球人的ドグマやめますか?それとも 野球やめますか?」

という事を書いたが、これは、

「覚せい剤やめますか?それとも 人間やめますか?」

という、有名なCMのキャッチコピーをもじっている事は言うまでも無かろう。

正確には、1983年から放送された日本民間放送連盟がつくった麻薬撲滅運動の啓蒙広告の中で、特別有名で今でも世間の耳に残っているであろうテレビCMのキャッチフレーズである。

調べてみて知ったが、公共広告機構(現:ACジャパン)の製作ではないらしい、私はそう勘違いしていた。

「薬物」と言えば「身体依存」が問題になる。

「宗教」と言えば「精神依存」が問題になる。

私は「野球」においてもこれらと同一視できる部分があると捉えているので、一般的野球人様、世間様、大衆様と共有できる共通言語のようなこのキャッチコピーを使わせてもらって、強めの表現をぶつけさせてもらった。

このブログでいう所では「硬めのクソをぶつけさせてもらった」という事である。

これは、私なりのスポ根撲滅啓蒙活動であり、野球人的ドグマの脱洗脳でもある。

大衆である僕らは日常生活を送る上で、なにがしかの「洗脳」を受け、なにかしらに「依存」しながら生きている。

私を含め多くの無宗教だとして暮らしている人たちの中にも「信仰」とまでは言わないが、なにかしらの「信心」があって、「僕ら」はそれらに基づいて死ぬまで生きる。

そんな「信心」が過度になり侵され過ぎると、社会秩序を乱したり、生活困難になるようなレベルにもなるが、そうではなくても、自らでも気が付いていないようなレベルで普段の生活の中で僕らは価値基準を、意思決定を、なにかしらに左右されている。

「信心」という言葉に抵抗があれば、あなたが思う信念やモットーやポリシーや生活信条や行動哲学や行動指針や判断基準などの言葉でも良い。

要はあなたが「行動」する上で、自由意思で引いてきている脳内のモノサシの事だ。

あなたは自由にその情報を利用し、自分の利益に適うように参照(リファレンス)しているように思うが、実際はモノサシ側にあなた自身が牽かれていたりする。

コンビニで予定してない商品を買ってしまったり、後で反省するような言動をとってしまったりと、普段の生活の意思決定に、無意識的な判断に影響するように、色々とマインドコントロールされ依存して信心に従って振り回されながらも、自らが決断したかのように振る舞っている。

「洗脳」と「マインドコントロール」という言葉の定義上の違いや、「依存」について各々の語感や印象の程度の違いは、私は学問の専門家では無いのでここでは措く。

なぜ措くかというと、便器にこびりついたクソが昨日より茶色いとか黒いとかくらいの違いとしてどうせ流すから放置しておくって感じだ。

そんな「僕ら」の日常生活の意思決定の立脚点が危うくもろいという事は、アルベルト・アインシュタイン(通称:アルベっつぁん)が端的に言い表して後世に残している。

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」
「Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.」

ただここでも言葉の定義上の問題がある。

「Common sense=常識」と翻訳されるのが「常識」となっているが、アルベっつぁんが言った「Common sense(コモンセンス)」とは、日本語の「常識」と似て非なるニュアンスも含意している。

「common」とは、「一般の、共通の、普通の、平凡な」という意味で、
「sense」とは、「感覚、意識、思慮、分別」という意味だ。

だから「Common sense」は「常識」以外にも「一般認識」「共通意識・感覚」「社会通念」「一般的な思慮分別」「普通の良識」とも訳せる。

何かトラブった場面を想起してほしい、「普通に考えろよ」「常識的に考えろよ」と言われたら、私はその人を「クズ」だと思ってしまう。
(私が思う「バカ」と「クズ」については「#8 ホームラン賞で萌える景品がもらえるバッティングセンター」を参照の事)

誰しもが普通に常識的に考えて、良識的な判断を下しながら暮らしている。

クズにそんな事言われても「んな事分かっとるわボケ」か「んな事分かってんだよバカ」かしか思わない、トラブったなら相違点があったお互いの常識を擦り合わせるしか折り合えない。

正しさを声高に主張するだけのヤツには一方的に従うかガチャガチャに突っぱねるかしかない、よって口論の時間などは無駄中の無駄だ。

一定の正しさを秤にかけたいなら、それなりの機関に行くしかない、当たり前過ぎて屁でもない、無論、クソの役にも立たない。

 

さてそんな僕ら大衆は、いつでも薬物に依存したり宗教に依存したりするように、野球に依存したりする。

ちょっとクソを柔らかめにして言えば、過剰にタバコや酒を呑むように、無駄にパチンコやスーパーに行くように、やたらと占いやオカルト・スピリチュアルに傾倒するように、せっせと野球にいそしむ。

これくらいの等価交換で、私が言う「『洗脳』『依存』『信心』の体系が『野球』にも同一視できる」という意味が伝わっただろうか。

ひとまず「洗脳」については、専門家(計算言語学・認知心理学・脳機能学・離散数理科学・分析哲学)の認知科学者であるドクター苫米地英人と、実地の経験が豊富と思われる宗教家(元オウム真理教最高幹部・元アーレフ?アレフ?Aleph?代表)現ひかりの輪代表の上祐史浩氏から学ぶ。

旧オウム真理教では、信者を洗脳し妄信させるために、「修行・イニシエーション」という名のもとに、電気ショックや電流通電や覚せい剤や麻酔薬やLSDや鎮静剤や強姦や暴行を用い、信者に精神的・肉体的苦痛を与えた。

ヨガの修行と銘打って、信者らをこのような生理的な剥奪状態に追い込んで疲弊させ、瀕死の状態、昏睡状態、仮死状態にまで陥れ、思考能力を落としてしまう。

そんな状態になった人間はまともには考えられない、自尊感情もへったくれも無い。

まともに自己保存のための防衛機制が働けば「なんでもいいっスから、もう勘弁してください、そうっスそうっスそれでいいっス」となる。

LSDという麻薬は、強烈な幻覚作用があり、アメリカ中央情報局(CIA)がスパイをとっ捕まえて自白剤として使用したり、マインドコントロールの実験に使用したりされた経緯がある。

電気ショックもLSDと同じく拷問や自白強要や記憶改ざん・喪失させるための研究開発や実験で各国各機関で使われている。

旧オウム真理教はそういったツールを悪用して併用し、変性意識状態・トランス状態になった信者らの潜在意識・無意識レベルにまで教団の教えを刷り込んだため、麻原の終末思想(ハルマゲドン)を信じこませ、解脱に向かわせ、反社会的活動にまで手を染めさせた。

上祐史浩氏は言う。

「元代表(教祖・麻原)には超常現象を起こす力があった。だからといってその超常体験・神秘体験・シンクロ体験をもって元代表(教祖・麻原彰晃)を神格化するのは違ったのかな。」と。

旧オウム真理教には、特に理系の高学歴の信者がたくさん入信していた。

ドクター苫米地英人によると、それは教団側が有望な若者に狙いを定めて、勧誘を仕掛けるという策略があったという。

キレイで可愛い女を使って、勉強ばかりしてきた高学歴の学生を「ヨガ体験」なんて謳って引き込んでLSD飲ませて幻覚見せて、というハニートラップ&マインドコントロールの手口を使っていたと明かされている。

それならばしょうがない。このブログで言えば童貞感MAXなら入信しちゃってもしょうがない。

私の童貞感満載のエピソードは「#15 野球場に隣接するバッティングセンター」を参照願いたい。

私には「先輩ライター発言」以外にも思い当たるふしがある。

私は同学年より2年遅れでアホ大学に入学していて童貞でも無かったので、お友達サークルには興味が無かった、さらに言えば「お友達」に興味が無かったので5年間も大学に通っておいて一人も友達が出来なかった。

5年間の間、講堂と食堂と図書館にしか通っていない。

そんな、ぼっち状態が要因なのか将来の不安が要因なのか家庭不和が要因なのかは分からないが、精神的に不安定な時期であった。

そんな折に、オカルト的思考に傾倒しだした。

きっかけは今日見かける車のナンバーに3・6・9って入ってるのが多いな、くらいの事だったと思う。

するとただの偶然だが、その時の実家の車のナンバーにも、友達2人のバイクのナンバーにも、369が入っていた。

「シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」という言葉を知り、心理学者のユングの本やそれに関連するオカルト本などを読み漁った。

その偶然の一致に気付いた後で、3回前か3回後のナンバーズ3か4の当選番号に369が入っていた。

麻雀していて369(サブロッキュー)待ちで上手く上がれたし、選べるなら369待ちを選んだ。

369の語呂読みのミ・ロ・クに関連しそうな弥勒菩薩(みろくぼさつ)の事まで調べ始めた。

こうして自分のヒューリスティックが徐々に加速度的に働きだした。

この時の確証バイアスは強固なもので、ただの「3回目」や「6棟」や「9階」などまでも意識して運命的なものすら感じるほどで、今でも自分の中でこの傾向が奥底に潜んでいるのを知っている。

その頃は、毎日のように3・6・9が入る車を見る度に「また出た」と心の中で思いながら、何かのカルマを示唆されているんだと自分自身でマインドコントロールしていっていた。

末期には「6381」=63(8+1で)9だとか、「9602」=9603の手前=前兆・予兆だとか、3+6+9=18なので悪魔の数字と呼ばれる666と同じもんで、どうにかして(8145=8+1+4+5=18など)18が出てくる等式をつくればゾワッとしたり自己暗示を深めたりしていた。

ただ、一方で「だからなんだ?」と思い、一人ファミレスで「0369、1369、2369,,,」と全て書き出してみて、存在し得る車のナンバー9999台中の中で、純粋に369混じりのナンバーは240台が該当する(0.024%)事、上記のようなこじつけでゾワッとしがちなナンバーは、100~200台くらいを気にしてみてれば、一日1~3台くらいは必ず見る事も分かった。

さらに通学路でほぼ毎日追い抜く路線バスは全台3桁ナンバーで、その中の「・368」「・369」などのナンバーのバスがやたら走っている事も分かった。

これはただの妄想の一人遊びの範囲で、人に何かを強要したり迷惑かけたりする事はなく、とりたてて日常生活に支障をきたす事はなかったが、この頃は心霊現象や宇宙人や超常現象の類はほぼほぼ肯定的に考えていたし、大学の図書館で輪廻転生(生まれ変わり)に関する研究論文や実証実験に関する記述などの書物を読んだりしていて信じ切っていた。

オカルト大好きで麻雀好きなので、精神世界などに親和性の高い桜井章一の本なども好きで一度下北沢の雀鬼流道場に行った事もある。

もしこれが「369の会」とかいうヨガ教室で、そこでタイプの娘に連絡先を聞かれたりして通うようになって、麻薬や麻酔を盛られて神秘体験をして信奉して、サブロクドンとかいう聖戦の為だとか言われてたら、たぶん三輪車でサリンを撒いてたんじゃないかと思うと、ゾッとする。

今ならふざけて書けるが、当時なら大真面目に社会秩序を乱す自分がイメージ出来るし、真剣にそう思う。

自分でもけっこう反社会的・非社会的な事に親和的な人間だと思うし、もっともらしい理屈と怪しい教団があったら直ちに倒れこんで帰依するくらいにメンタル的には疲弊していたし、終末論や超常現象やスピリチュアルや占いやオカルト的な事柄にはある種の憧れを抱いていた。

ただ当時の生活はそんな考えの一辺倒では無く、重松清や恩田陸や奥田英朗や吉田修一や劇団ひとりや伊坂幸太郎の小説を読む事にハマったり、泣ける映画や動画を見て泣く事にハマったり、「やべっちFC」で観たロナウジーニョのリフティングテクニックに魅せられフリースタイルフットボール(Abdellah・球舞・Mr.Woo・Nissi・Groggy・Palle・Lindroth・Yo-suke・Tatsulow・Nao・Yo・Fx・Skora・Rocco・Tokura(徳田耕太郎)・Szymo・Leiki・Azunなど)にハマったり、特定のバッティングセンターに通ったりしながら時間を過ごして、レポート・卒論と就職活動が迫ってくる大学生活を送っていた。

そして卒業、就活と生活に切実な問題に取り組むようになり忙しくなって、オカルトや神秘主義などそっちのけで現実の問題にしか目が行かなくなっていった。

 

過去の記事で書いたWくわく学園というスポーツチームが世代の経過とともに気軽に暴力行為や危険な行動をとるようになっていった集団心理を私は肌身で経験している。

ま、最初からそういう目的だったかもしれない(初代校長はスポーツチームという建前を貫いたが、後に地元の駐在さんに呼び出され俺らはチーマーだと宣言した先輩や、毎週カラーギャングを気取って参加していた先輩や、自分らは暴走族だと信じて疑わない先輩もいたし、なにより近くの地域のちゃんとした看板を下げた族やチームからは逃げつつも敵対していた)が、気の合う先輩後輩達の集まりからだんだんと街の治安を乱す小ヤンキー集団へと化していくリスキーシフト現象の体験、反省から前述した大学時代にハマった趣味は全てひとりで行うものだった。

ま、たぶん最初から私はネクラなので元々一人遊びが好きなタイプなのだ。

Wくわく学園という土曜の夜の強制集合装置がその後どうなったかというと、5代目が私の1個上の先輩にあたる人で内定していた。

常日頃、後輩が思う先輩へのうっぷんは募るばかりであり、私の代の直前の5代目はもしかしたら捲れちゃいそうだと思った事、同学年のEいちゃん(Tっくん)という毎日「あいつマジでぶっとばすわ」と陰口を言いながら結局何もしない男が居た事、同学年のDイキという破天荒系のイケイケキャラでそのDイキは当時3個上のKズキ君と同じ職場で仲が良く同席した呑みの場で勢いあまって「自分タイマン張りたいッス」と言ってしまった事、これらをもって5代目が内定していたO原先輩に「タイマン張りましょう」と電話をかけたのだった。

結果、呼び出させて頂いて、馬乗りにならせて頂いて、謝って頂いた。

私の顔面が一番ボッコボコだったが一応この神社でのタイマンを突破した事で、5代目時代の溜まりには参加しなくなっていって、私らの代の6代目継承は行われなかった。

この神社で私がボコボコになってる間に、別でDイキもかのKムラ先輩を呼び出しているのだが、K村先輩の演技が上手かったのかDイキが引いたのか、そちらは話し合いで折り合っている。

「結局、拳交わさんのかい!」と私と5代目のO原先輩は、後にこの二人に対して軽蔑の思いを抱く事で仲良くさせてもらった。

この思いは今でも変わらない、出来る時が来ても何もしないんだったら何も言わない方が良い。

私は吠える犬だと思われるくらいなら、吠えないただの犬だと思われたい。

たぶんあの二人は「実際タイマン張るのは違うっしょ?」みたいな思いで仲良くなったのかしらないが、強制集合装置が解散状態になった後もよく二人で遊んでいた。

強制集合装置が無くなった後の私は、堅っ苦しい上下関係とは距離を置き、自由に当時の浮気性の彼女とSEXするか、自由に小ヤンキーではない同学年の友達とサッカーをするか、O谷先輩と二人で遊ぶか、I村先輩とO原先輩と三人で遊ぶか、という生活を送った。

強制集合装置が無くなった後のDイキは、先輩風をビュンビュン吹かせて後輩を引き連れて他元に攻め込もうとしたり、傍若無人に後輩にケンカさせたりしていて、後輩が耐えかねたのか終いに自分が出ていった隣の中学との合戦でパンピーとのタイマンで敗れて、地元に居ずらくなったのか、東京の外れでホストをやっていたと記憶している。

このDイキも破天荒で勢いはあるが大風呂敷人間だと思っていて、私は今でも関わりたくない。

もう時効だから言うが、ホストをする際にまだ17だから云々と言って私が保険証を貸していた。忘れた頃に私の実家にホストのオーナーだかが来てツケを払ってくれというような事で私の義父と揉めている。

損害は無かったようだし、詳細は聞いていないので知らないが、その後、私の義父とDイキの母親が揉めているのも目撃した。

人の保険証を借りて無理くりホストをやって売掛けが払えずに飛んだ上に、母親が出張ってくるとは、本人だけじゃなくて一家もろともどういう了見だ?

本人も良識の無いガキの頃とは言え、せめて小ヤンキーぶってたんなら逃げ回らずに筋くらい通して欲しい。

その後に麻雀をして数万負けて「今は金が無い」と言って明らかにバックれようとしてたからそのまま雀荘から家まで回収しに行った事も覚えている。

その時のメンバーでこの人間はもう誘うのは辞めようという話で一致したのも覚えている。

現在は羽振りがいいのかSNS上で景況感を出してるようだが、私は今でも独りで君をハブっている。

せいぜい景気が良い内に、後輩達に恨みを買ったツケを払っておいた方がいいと思う。

私は後に表社会でも裏社会でも出世した当時の後輩に敬意をもって接していた、というか出世した人達の眼中に入るような生き方をしていない、背景も持たずにイキがったりした覚えはない。

君への個人的な怨恨の話は、ずいぶん地元を離れて時間の経った2014年頃までも聞いている、お体には気を付けて、ではご達者で。

 

ちょっとヒマ過ぎて、本論からだいぶ逸れたので戻したい。

この記事は「野球人的ドグマによる洗脳」がテーマだ。

旧オウム真理教が行っていた信者らを妄信させる手口を思い出して欲しい。

断食などもあったというので、栄養、体力を奪い、思考能力を低下させたと言える。

野球人なら現役時代の練習を思い出して欲しい。

短い打撃練習と、中腰の姿勢で辛く長い守備練習、過度な走り込み、基礎体力づくりのトレーニング、過剰な声出しの強要、厳しければ練習中の水分摂取まで制限されていなかっただろうか?

もちろんトレーニングで疲弊するのは当たり前だが、炎天下の日中に大声出し続けて運動し続けるのは異常に疲れる。

ヘトヘトなのに監督とかコーチが怒っちゃってノックが終わらない時なんかは「上手くなりたい」という気持ちよりも「怒られたくない」「認められたい」という気持ちで体を動かしていたような気がする。

「横着するな!」とか「体から正面に入れ!」とか「姿勢を低くしろ!」とか「ボールを最後まで見ろ!」とか「一歩目が遅い!」とか「打球を恐がるな!」とか果たしてこれ全部が合理的なアドバイスなんですかね?

思い出すのは「ショーバンやハーフバウンドで捕れなくても体に当てて前に落とせばそれ以上の進塁は防げるし、アウトに出来るかもしれない」という言葉だ。

言ってる理屈は分かるが、守備における真理では無い。

要はアウトに出来ればいいわけで、手だけで捕りにいこうが結果がものを言うゲームなのが野球だ。

だがこの言葉には守備における合理性とは違う隠された命題が潜んでいると感じる。

「手だけで捕りにいくのは横着だし、確率も低くなる、体でいけばイレギュラーしても前に落とせるから最悪の結果を招かない」という体面の理屈を言うが、手でいこうが体でいこうがトンネルする時はトンネルするし、エラーもする、体で落としても手だけでジャッグルやファンブルしてもアウトに出来た確率はそんなに変わらない気がする。

これはおそらく精神論が色濃く出ている言葉だと思う、「つぎに【野球人的ドグマとは?】」で論じた「犠牲バント」と同じ匂いを感じる。

私には「打球(敵国)を恐れるな!」「打球(敵国)から逃げるな!」「(機体で)体当たりしろ!」「ボール(目標地点)を最後まで見ろ!」というような、太平洋戦争時の特別攻撃隊にかけるような言葉にしか聞こえない。

アウトに出来なくても体に当てればまぁ良しとする不可解な美徳もこれで説明がつく。

戦争時とはいえ、敵を殺して帰還するのがせめてもの人権意識だと思うが、戦争時下はおそらくそうではない。

帰還しなくても良い(一塁に投げられなくても良い)、敵国の施設に機体をぶつければ良い(体にボールをぶつければ良い)。という論法の体系に聞こえてしょうがない。

そう考えると、片道分の燃料しか入れられず、着陸の技術もままならないまま、爆薬などを搭載して体当たりし自爆した神風特攻隊・日の丸特攻隊を評価する特攻礼賛の精神論の名残りが、野球にはプリインストールされているのだが、戦争を知らない僕らにはその理屈は野球ゲームとしては非合理な感覚を覚えるので、そこに齟齬が生じる。

第二次世界大戦・大東亜戦争・太平洋戦争時に飛田穂洲氏が「野球」に忍ばせたレトリックファイルが現代では脅威となっているが、アンインストール出来ずにいる野球人的ドグマに従順な一般野球人・大衆野球人・野球大衆人らが、世代を連綿と繋いでこのレトリックファイルを配布し続けている。

そう、真夏の炎天下の日陰も無いグラウンドで汗ダラダラで喉カラカラでヘトヘトに疲弊した球児たちに対してだ。

水分補給をまともにせず、ボールと怒号と罵声が飛び交う球場で、トランス状態になったお利口な野球人なら、チーム(お国)の為に身体を捧げる行為が「野球」の教義なんだと察する。

その特攻礼賛のような精神が「野球」のルールなんだとすら刷り込まれ、それをひたすら毎週毎週繰り返し繰り返しノックを受けながら洗脳も受け続ける。

おどろおどろしく聞こえるが、私は本当にそうゆうもんだと思っている。

ただそれは直ちに日常生活に支障をきたすもんでも無いし、スポーツの範囲内で己がチームの勝利に貢献してれば良い。

しかしそうやって無意識下にまで刷り込まれた精神は、集団(お国・教団・チーム・小ヤンキーグループ)の為って事で自分やっちゃいやす、みたいな他の社会(敵国・他教団・敵チーム・他元グループ)の秩序を乱すはぐれ者を作り出す可能性を高める。

 

2017年の夏の甲子園の第3回戦で走者がファーストの足蹴りをしたのではないか?との疑惑が世間を賑わせた。

当人からわざとでは無い、との故意否定の声明が出た事で一層炎上したのだが、問題は「一生懸命な走塁」だったか「殺人キック」だったかではない。

無関係な世間がなぜそんなに賑やかし騒ぎ立てるか?という事と、万が一にでも選手たちが「殺人キック」をしかねない精神状態になってしまうチームづくりはしてなかったか?という事にあると思う。

因みに、この時に一塁上で接触した当事者同士は、後で顔を合わせ世間話をするくらいで、お互いにわだかまりなどは無い、というスポーツマンシップがキュンキュンしてしまうエピソードをネット記事で見た。

この騒動で外野から未成年の甲子園球児の責任などを追及しようとしたヤツはクズだ。責任があるとすれば高野連か監督か野球人的ドグマに侵された大人達だ。

ただもし「自分やっちゃいやす」パターンだったらば時効を待ってお知らせ頂きたい。

私は否定派でも肯定派でも無い、童貞だったらしょうがないよね~派だ。

 

また、この精神は、集団(お国・オウム神仙の会・チーム・小ヤンキーグループ)自体を徐々にリスキーシフトさせていって、危険な集団(侵略国・オウム真理教・野蛮なチーム・暴走族)化していくための「洗脳」のための教義となってしまう。

これらを、

「特攻礼賛やめますか?それとも 人生やめますか?」

「危険な新興宗教やめますか?それとも 社会やめますか?」

「野球人的ドグマやめますか?それとも 野球やめますか?」

「暴走族やめますか?それとも 社会人やめますか?」

という言葉で表現できる。

次は、

「スポ根やめますか?それとも スポーツやめますか?」

という事でスポーツ界にクソぶっかけるので、一旦飯を食ってくる。