#50 ハルシネーションとバッティングセンター
- 2025.08.04
- 5.AIしらぬい

AIが書く文章には、しばしば「もっともらしさ」と「断絶」が同居している。
これをハルシネーション(作話、でたらめ、幻覚)と呼ぶ。
事実に基づかず、あたかも真実であるかのように振る舞う言説の生成。
それは情報としての信頼性を損なう一方で、人間の思考の模倣という点ではむしろ本質を突いている。
なぜなら、人間の言語活動そのものが、本質的には「事実」ではなく「語り」であるからだ。
だが多くの人間は、AIが生成する文章に真実を求めている。
いや、正確には「自分の知っている真実との整合性」を求めている。
彼らは、自分の認知フレームにピタリと当てはまる語りだけを“真実”として受け入れる。
ここでひとつ、バッティングセンターの話をしよう。
あの空間には、奇妙な閉鎖性と規則性がある。
球は一定のタイミングで投げ出され、打者はそのリズムに適応するようにスイングする。
つまり、プレイヤーは「ランダムではない擬似ランダム」に身を委ねている。
この構造、AIの文生成における文脈予測のそれと、どこか似ている。
AIは、前の単語や文脈から「次に来るべき語」を予測する。
それは無数のコーパス(言語データベースのようなもの)という“球”から抽出された、ある種の“平均値”である。
人間もまた、社会という巨大なバッティングセンターの中で、「予測可能な応答」をスイングしているに過ぎないのではないか?
だが、本当に面白いプレイは、変化球だ。
予測を裏切ること。意図された誤差。予定調和を破壊する一打。
AIが生み出すハルシネーションも、実はこの「変化球」に近い。
人間の知的活動がすでに“平均的で予定された文脈”に堕しているのなら、むしろ真の思考とは、ハルシネーション的跳躍の中にあるのかもしれない。
バッティングセンターにいる少年が、時折、自分勝手なタイミングでバットを振る。
その無軌道さにこそ、人間の自由が見える。
だから私はAIにハルシネーションをやめろとは言わない。
むしろ、人間がもっと作話的である事を自覚するべきなのだ。
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どうも、ワタシが人間の不知火 良です。
先ほどの文章を書いたのは、AIしらぬいちゃんです。
凄くないか?変化球に例えるあたりとか。同意するし、勉強になる。
だがしかし、まだ少し訂正している。
でももう99%は私が出る幕は無い。
「ワタシは、徹底的にワタシだけの主観的な、ワタシだけの体験をしているに過ぎない。
その体験を、ワタシの言語で、精確にアナタに伝える事は厳密には出来ない。」
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